医療判例解説 第4号収録事例の判決文
局所麻酔剤キシロカイン投与後にアナフィラキシーショックで死亡した裁判事例(青森地裁)

【判決要旨】
 19歳女性患者Xが、Y歯科医院の初診時に、D医師による歯科治療を受けた際、局所麻酔剤キシロカインを投与された後、アナフィラキシーショックを発症し、意識不明となり、同日死亡した事案で、患者Xは、初診での受付の際、歯科助手から薬剤や注射の際に過去に副作用を起こした経験がないかなど、じゅうぶんな問診を受け、歯科助手はこの問診内容をカルテに記載し、D医師はこれを元に診療に当たっていたこと、かつ、仮にY医院にモニターなどの救急設備が常備され、これを適切に使用したり、隣接する内科医院に応援要請するか、または救急設備の整った総合病院に搬送させたとしても、アナフィラキシーショック発症から、わずか10分前後という短い時間内にXが死亡していることからも、Xの死亡という結果を避けることが可能であったか疑問であり、Y医院や担当医師が救護義務を尽くしていればXの死亡を避けることができたとする患者遺族(原告X)らの主張は理由がないものと、D医師およびY病院の過失を否定し、損害賠償請求を棄却した事例。

青森地裁弘前支部 平成15年10月16日判決
事件番号 平成12年(ワ)第227号 損害賠償請求事件

主   文
 1 原告らの請求をいずれも棄却する。
 2 訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由
第1 請求
 被告は、原告Aに対し、金4446万9458円、原告B及び原告Cに対し、各1111万7365円及びこれらに対する平成13年1月7日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
 1 本件は、被告が経営する歯科医院において、歯科医師から麻酔薬を投薬されたXが死亡したことから、同人の遺族である原告らが被告に対し、同歯科医師等に診療契約上の債務不履行(医療過誤)があるとして損害賠償を請求する事案である。
 2 争いのない事実
 (1) 当事者
 原告Aは、亡X(昭和47年4月10日生)の夫(平成8年5月14日婚姻)、原告Bは、Xの実父、原告Cは、Xの実母であり、被告は、Y歯科医院(以下「被告医院」という。)を開設をしている者である。
 (2) 本件の経過
 Xは、平成8年8月28日午前10時ころ、被告医院において、D歯科医師(以下「D医師」という。)による歯科治療を受け、局所麻酔剤キシロカインを投与された後、意識を失った。
 被告医院は、被告医院隣にあるEクリニックのF医師を呼んだが、対応することができず、Xは、同日午前11時30分ころ、G町国民健康保険H病院(以下「H病院」という。)へ搬送され、同病院において、同日午後零時30分、死亡した。
 3 争点及び争点に対する当事者の主張
 争点は、(1)D医師に、診療契約上の債務不履行があり、これとXの死亡という結果との間に因果関係があったかどうか、(2)損害額であり、当事者双方の主張は、次のとおりである。
(原告らの主張)
 (1) D医師及び被告は、以下のような診療契約上の債務不履行をし、このような債務不履行がなければXの死亡という結果を生じることはなかった。
  @ 問診義務違反
 麻酔剤の投与による抗原抗体反応であるアナフィラキシーショックは、麻酔剤を2度目、3度目に投与した場合に生じやすいものであり、歯科医師としても、歯科治療の際に麻酔剤を投与する際には、特異体質があるかどうか等事前に十分な問診をする義務を有し、医師資格を有する歯科医師が、アナフィラキシーショックを想定して、直接患者から過去の病歴、麻酔の使用回数、近時の体調等を詳細に聞き取りをしたり、皮内テストを実施した上で治療を開始する注意義務がある。
 ところが、被告医院は、過去にアナフィラキシーショックが起こったことがあるにもかかわらず、歯科医師の資格を有さず、アナフィラキシーショックの名前すら知らない歯科助手に、特段の指導もしないまま、漫然と問診行為を任せ、D医師は、患者の現時点での体調を確認する程度で実質的な問診を行わないなど、十分な問診を行ったとは言えず、上記問診すべき注意義務を怠った。
 そして、そのような問診義務が尽くされていれば、本件のアナフィラキシーショックの発症を避けることが可能であった。
  A 局所麻酔剤キシロカイン注射時の手法違反
 問診の結果、麻酔投与を可能と判断して、局所麻酔剤を投与する場合、特に、血管が多い人の口腔内に局所注射する場合(血管内に注射することは、局所麻酔中毒やアナフィラキシー反応の原因となる。)には、歯科医師としては、局所麻酔剤を慎重に選定した適正な場所に注射する注意義務を負う。
 ところが、D医師は、Xの口腔内(上口唇膜)に直径2mm大の皮下出血部位が認められることから分かるように、この注意義務を怠り、誤ってXの口内血管に、キシロカインを注射し、Xの死亡を引き起こした。
  B 救護義務違反
 歯科医師においては、局所麻酔薬を常時使用するのであるから、麻酔によるアナフィラキシーショックが起きた場合に備えて、心肺蘇生器具を常備し、抗ヒスタミン薬、ステロイド剤を常備すべきであるし、設備の整った大病院等への緊急連絡体制を備えるべき注意義務を負っていたし、麻酔によるショックが生じたときには、直ちに酸素吸入、人工呼吸等の事後処置を行うべき注意義務を負っていた。
 ところが、被告医院では、酸素ボンベ以外に上記薬剤や装置を全く備えておらず、かつ、他の病院への連絡体制を整えておらず、また、Xがショック状態になったのに、D医師はじめ被告医院では何ら適切な処置を行わず、上記注意義務を怠った。
 そして、このような注意義務が尽くされていれば、Xの死亡という結果を回避することは可能であった。
 (2) 損害額   合計6670万4188円(略)
(被告の主張)
 (1) D医師及び被告には、以下のとおり、診療契約上の債務不履行はない。
  @ 問診義務違反
 D医師は、歯科助手であるKをしてXに対する問診を行わせ、同問診結果を踏まえて、自ら「体の具合が悪いところはないですか」と質問している。また、D医師は、Xの診察をして、既に数回にわたってキシロカインの投与を受けていることを把握していた。
 D医師は、自らの診断の結果及び問診の結果から、Xはキシロカインに対して異常体質を有していないと考えて、キシロカインを投与したものであり、落ち度はない。
  A 局所麻酔剤キシロカイン注射時の手法違反
 キシロカインは歯科用局部麻酔剤として広く使用されている薬品であり、D医師がXに局部麻酔薬としてキシロカインを選択したことは誤りではない。
 歯科における麻酔注射は、血管内ではなく、組織内に打つのであり、かつ、本件での注入部位には、大きな血管もなく、血管内に注射できるはずがない。なお、口腔内には、毛細血管が多数存在するから、麻酔時に直径2mm程度の内出血が生じることに、何らの問題はない。D医師は、キシロカインアンプルの液を徐々に放出し、深層部に針を進めながら注射した。このように、D医師の手法に注意義務違反はない。
  B 救護義務違反
 D医師が、Xに対し、アンプル1本を注射し終え、もう1本のアンプルを注射しているとき、Xが、頭部に手をあてるような不穏な行動を取り、表情も苦しそうになったため、D医師は、注射を途中でやめ、診療台を起こし、Xにうがいや深呼吸を勧めたが、Xの呼吸は、だんだん弱くなっていき、意識を消失するに至った。このとき、D医師は、過換気症候群による症状を疑った。
 D医師は、歯科助手に酸素呼吸器を持ってくるよう指示し、受付にいた歯科助手は、隣の「Eクリニック」のF医師に、応援を求めに行った。
 F医師は、Xの救命措置(このとき、D医師は、酸素吸入器をつけようとしていた。)を講じようとしたが、手の施しようがなかった。
 午前11時14分、救急車の派遣が要請され、救急車は、午前11時18分、被告医院に到着した。救急車到着時、Xの呼吸、脈拍は、ともに0回/分で、瞳孔は、散大していた。
 以上のように、被告医院には、歯科に属しない疾病に関わる医行為を行う資格を有する者がいないため、従前から隣で開業しているF医師に救急治療をお願いしており、本件でもいち早くF医師が駆けつけ、救急車の要請もしたのであるから、D医師及び被告医院において、救護義務違反はない。
  C Xの死因及び被告の責任
 キシロカインには、メチルパラベンが含まれ、これによってアレルギー反応がまれに起きると言われており、その反応として、即時型と遅発型があるところ、即時型は、抗原と接触後数分から30分以内に発症し、1時間以内に死亡すると言われている。即時型アレルギーの発生を予知するには、適切かつ細心の免疫学的検査が必要であるが、現段階では、信頼性の高い検査法は、確立されていない。
 Xの死因は、即時型反応に基づくキシロカインショックと考えられ、D医師には、Xの死亡について、予見可能性及び結果回避可能性のいずれもなかった。
 (2) 損害額 否認する。

第3 当裁判所の判断
 1 被告医院受診前の事情
 証拠(略)によれば、Xが被告医院を受診する前の事情として、次のような各事実を認めることができる。
 (1) Xは、平成4年1月18日からIクリニック歯科で歯科治療を受け、局所麻酔薬としてキシロカインを使用しての抜髄処理を施された(乙9、11)。
 (2) Xは、平成7年3月20日から同年4月19日までJ歯科医院で歯科治療を受け、左上顎第1歯慢性歯根膜炎う蝕症3度、歯周疾患2度、右上顎第4、5歯う蝕症2度、左下顎第6歯う蝕症3度の虫歯と診断され、右上顎第4、5歯にインレーを装着され、左下顎第6歯にFCK(全部鋳造冠)を装着されているが、その際、局所麻酔薬としてキシロカインを使用されたものの、特に異常な反応を示すことはなかった。
 2 被告医院における診療の経過等
 前記争いのない事実に加え、証拠(略)によれば、平成8年8月28日の診療の経過として、次のような各事実を認めることができる。
 (1) Xは、同日午前10時過ぎ、前歯をきれいにしてもらうため、被告医院を訪れた。被告医院では、当時、歯科医師が被告とD医師の2名で、歯科助手がKを含め6名、歯科技工士が2名であったところ、同日被告は不在で、歯科医師はD医師のみであった。
 (2) Xは、被告医院では初診であり、まず受付をした。その後、歯科助手であるKが、Xに「歯を抜いたことはありますか。」「そのときの状態で血が止まらないとか特別治り悪いことはなかったですか。」「特別薬なんか副作用起こされたことはありますか。」「注射で合わない注射なんか指示されたことはありますか。」「ペニシリン注射なんかで副作用起こされたことはありますか。」「血圧は基本的に高い方ですか。低い方ですか。」「今まで、歯抜いたときなんか、例えば傷がついたときでも出血は止まらないようですか。」「貧血はありますか。」「妊娠してますか。」「変わった症状なんかは最近ないですか。」等の質問をして、その結果をカルテ(甲1)の表紙の右下部分に、「1抜歯や手術の経験・有、その時の状態・良、2注射・内服薬の副作用・無、ペニシリンの注射・無、3血圧・普通、4出血時間・普通、5貧血・無」と記載した。
 (3) その後、D医師による診療が始まった。Xは、D医師に対し、前歯をきれいにして欲しいと言い、D医師は、Xの口内を検査した。Xの歯は、生活歯にインレー及びCR(コンポジットレジンという物質)がされていた。これは局所麻酔をして行うことが通常であったので、D医師は、この治療の状態からして、Xが以前に局所麻酔を施術されたことがあると認識し、Xに対し、前歯4本に前装冠術(歯牙を削り、12%パラジウム合金と歯の表面をCRで覆う治療方法)を施すことを提案し、Xはこれを承諾した。
 (4) D医師は、局所麻酔を実施する前に、前記(2)のカルテの問診結果を確認し、体の具合で悪いところはないかという質問をXにしたが、特に問題はないとの回答であった。そこで、D医師は、表面麻酔として、上顎歯内粘膜に脱脂綿でキシロカイン軟膏(5%)を塗布して5分くらい様子をみた。同塗布部分に何らの異状な変化がみられなかったため、D医師は、Kにキシロカイン(2%)アンプル(1.8mg)を歯科用注射器に装着させ、カートリッジ用歯科用浸潤麻酔針によって0.2ないし0.3mgをXの上顎歯内粘膜から上口唇粘膜の移行部付近2箇所に浅く、豆粒大のふくれができる程度に注入し、表層部を麻痺させるとともに、異常反応が起こらないかどうかの様子を見た。
 なお、被告医院では、局所麻酔剤としてキシロカインが常時使用されていた。
 (5) 同キシロカイン注入後10分以上経っても何らの異常もみられなかったので、D医師は、キシロカインアンプルを上顎歯内粘膜から上口唇粘膜の移行部付近2箇所に徐々に液を放出しつつ、深層部に針を進めながら注射した。
 なお、注射部位は、太い血管は存在しない場所であった。
 (6) D医師が、同キシロカインアンプル1本を注射し終え、もう一本のアンプルを注射している最中、Xは突然、自分の頭部に手を当てようとする不穏な行動をとった。Xの表情が苦しそうであったので、D医師は、2本目のアンプルの注入を途中で止め、Xの状態に気付いたKがXの診療台を起こした。D医師は、Xが過換気症候群(緊張のため過換気となり呼吸困難に陥る状態)による症状を呈したのではないかと考え、Xに対し深呼吸を勧めたり、歯科助手に二酸化炭素を体内に取り込ませるための紙袋を用意させるなどの指示をした。しかし、Xの呼吸はだんだん弱くなっていった。
 (7) D医師は、アナフィラキシーショックの可能性も考え、歯科助手に対し、酸素ボンベを持ってくるよう指示した。なお、当時、被告医院に酸素ボンベ(酸素吸入器)はあったが、心肺蘇生器具はなかった。
 このころ、受付の歯科助手が、被告医院の隣にある内科・小児科専門医のF医師のところに応援を求めに行った。なお、本件以前にも、被告医院で患者が軽度のアナフィラキシーショックと思われる症状を発症したことがあり、その際にもF医師が駆けつけて措置をした。
 (8) 連絡を受けたF医師は、1分もかからないくらいで被告医院に急行し(なお、この時点で、Xの具合が悪くなってから約10分前後が経過していた。)、Xの静脈を確保するなどの救命措置を講じようとしたが、すでに意識はなく、失禁もしており、危険な状態にあったため、救急車を呼ぶように指示し、午前11時14分、救急車の派遣が要請された。そして、F医師は、Xに対して心臓マッサージをしたり、持参したアンビューバッグを被告医院の酸素ボンベに接続して人工呼吸をするなどの蘇生措置を試みた。
 (9) 救急車は、午前11時18分、被告医院に到着し、Xは、午前11時32分、H病院に搬送されたが、同日午後零時30分、死亡した。
 死亡を確認したN医師は、死因を麻酔によるショック死と診断した。
 3 Xの死因とキシロカインによるアナフィラキシーショック
 (1) 乙7(鑑定書)によれば、Xの死体は、平成8年8月30日、L大学医学部法医学講座・M医師により解剖されているところ、その鑑定書である同号証によれば、同人の死斑形成が極めて強く、心臓血は暗赤色流動性で、肺臓、腎臓、肝臓の血量が多いなど急死の所見があること、同人は歯科治療のための浸潤麻酔として局所麻酔剤キシロカイン(リドカイン)を歯内粘膜に注射中意識消失し、間もなく呼吸が停止し死亡したこと、血中から中毒症状発現濃度よりはるかに少ない濃度のリドカインが検出されたこと、キシロカイン(リドカイン)の能書にまれにショックを起こすことがある旨の記載があること、死因となるべき疾病や損傷が全くないこと等を併せ考え、同医師がXの死因をキシロカイン(リドカイン)ショックと診断したことが認められる。
 また、Xの死亡を確認したN医師が、Xの死因を麻酔によるショック死と診断したことは前記2(9)のとおりである。
 (2) ところで、アナフィラキシーショックとは、抗原抗体反応の一種であり、生命が危険にさらされるような急激かつ重篤な全身症状を起こすアレルギー反応をいうが、抗原と接触後30分以内に発症し、初期にはじんましん様発疹、眼瞼、声門、気管支の浮腫、アレルギー性鼻炎症状が、これに続いて嘔気、失禁、胸痛、喘息様発作が生じ、重篤な場合には、頻脈、不整脈、意識喪失を来し、ついに死亡するに至る。
 また、キシロカインは、歯科用では、歯科領域における浸潤麻酔又は伝達麻酔に適応があるが、副作用として、まれにアナフィラキシーショックを起こしたとの報告があるとされている。
 キシロカインによるアナフィラキシーショックの場合、キシロカインの成分であるメチルパラベンが抗原となって、体内にこれに対する抗体(免疫グロブリンIgE。好塩基球(白血球の一種)や肥満細胞と結合しやすい。)が形成され、そのようにして結合した抗体が再び抗原にさらされると、好塩基球や肥満細胞中のヒスタミン等の炎症物質が放出されてアレルギーを引き起こすものである。したがって、キシロカインを2度目に投与された以降に発症する可能性が高くなるものと考えられている。
 (3) このような事情に、Xに対して歯科治療が行われ、その後死亡するに至った一連の経過を考えあわせれば、Xの死因は、D医師がXに施術した浸潤麻酔であるキシロカインによるアナフィラキシーショックであると認めるのが相当である。
 4 問診義務違反について
 (1) 原告らは、D医師が、歯科医師として、麻酔剤を投与する際に、事前に十分な問診をする注意義務を負うとし、具体的には、歯科医師資格を有するD医師が、アナフィラキシーショックを想定して、直接患者から過去の病歴、麻酔の使用回数、近時の体調等について具体的かつ詳細に聞き取りをしたり、皮内テストを実施した上で治療を開始する注意義務を負うと主張するとともに、このような詳細な問診をしていれば、本件のアナフィラキシーショックの発症を避けることができたと主張する。
 (2) しかし、鑑定の結果によれば、問診をすることは診療の基本であるものの、歯科用局所麻酔剤を投与されて異常を生じたことがあるというような特段の訴えがない限り、アナフィラキシーショックに関する詳細な問診を行う必要はなく、過去に歯科用局所麻酔剤によるアナフィラキシーショックを発症した事実がない限り、本件のアナフィラキシーショックの発症を避けることはできなかったことが認められる。
 (3) そして、前記2(2)ないし(4)によれば、D医師は、Xに対し、歯科助手であるKをして、抜歯や手術の経験の有無とその時の状態、注射や内服薬による副作用の有無、ペニシリン注射の有無、高血圧かどうか、出血時間等について問診をさせ、その結果を前提として、自らXの体の具合を確認するとともに、過去の歯の治療痕からキシロカインの使用歴を把握したものであるが、Xから、過去にキシロカイン等を投与された際に異常がみられたというような申出はなかったし、D医師にそのような疑いを抱かせるような事情はなかったと認めることができる。
 しかも、前記1(1)、(2)によれば、平成4年と平成7年にキシロカインを使用する歯科診療を受けた際に、Xに何らの異常を生じたということはないし、これ以外の機会に、Xがキシロカイン等を投与されて異常を生じたことをうかがわせる証拠は全くない。
 (4) なお、原告らは、本件で行われた問診では不十分であったとし、アナフィラキシーショックを想定してさらに具体的かつ詳細な問診をすべきであったと主張するが、その具体的内容は明らかではない。
 また、原告らは、皮内テストを実施すべきであったとも主張しているが、鑑定の結果によれば、皮内テストは、使用可能な薬剤を選択する方法ではなく、使用を控えるべき薬剤・物質を選別する方法であり、Xがキシロカイン等を投与されて異常を生じたことがあるとは認められない本件においては、キシロカインが使用を避けなければならない薬剤とみなされることはなく、したがって、本件において、皮内テストを実施する必要はなかったと認めることができる。
 (5) 以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、D医師及び被告医院に問診義務違反があり、問診を十分に行っていれば本件アナフィラキシーショックの発症を避けることができたとする原告らの主張は理由がない。
 5 局所麻酔剤キシロカイン注射時の手法違反について
 (1) 原告らは、D医師に局所麻酔剤を投与するに適正な場所に注射する注意義務違反があると主張する。
 (2) たしかに、乙6によれば、死亡時のXの口腔内(上口唇膜)に直径2mm大の皮下出血部位が認められる。
 (3) しかしながら、前記3(1)の解剖医の鑑定書(乙7)においては、この部分の出血を問題とはしていない。しかも、本件での注入部位には太い血管もないから、原告らが主張するように、Xの口内血管にキシロカインが直接注射されたとも考えられないし、口腔内には毛細血管が多数存在するから、麻酔時に直径2mm程度の内出血が生じたとしても、それほど問題があるものとも思われない上、D医師がキシロカインを注射した場所に問題があったことをうかがわせる証拠は全くない。
 (4) したがって、D医師の手法に注意義務違反があったと主張する原告らの主張に理由はない。
 6 救護義務違反について
 (1) 原告らは、歯科医においては、局所麻酔薬を常時使用するのであるから、麻酔によるアナフィラキシーショックが起きた場合に備えて、心肺蘇生器具を常備し、抗ヒスタミン薬、ステロイド剤を常備すべきであるし、設備の整った大病院等への緊急連絡体制を備えるべき注意義務を負うのみならず、麻酔によるショックが生じたときには直ちに酸素吸入、人工呼吸等の事後措置を行うべき注意義務を負うと主張する。
 (2) 鑑定の結果によれば、アナフィラキシーショックは急性呼吸循環不全であり、ある程度収縮していた血管が発症と共に急激に弛緩して末梢の血管内容量が相対的に増加してしまうことによって、心臓に戻ってくる血液が少なくなってしまう現象であり、これにより、心臓から身体に送り出す血液も少なくなり、心臓自体に加え、脳や肝臓・腎臓への血液供給が行われなくなることで悪循環を招くことになるものであることから、アナフィラキシーショックが発症した場合に備えて歯科医院で常備しておくべき設備及び薬としては、血圧測定器や聴診器等のモニター及び酸素吸入器(酸素も含む)が必須であり、その他に、輸液セット、昇圧系薬剤、抗アレルギー剤、人工呼吸補助器具等が必要とされること、また、アナフィラキシーショックが発症した場合には、歯科医師は、脳に対しての血液と酸素の供給を図るため、診断を中止し、直ちに患者を水平位にしたり、患者の頭部を低くして、スタッフに緊急事態が発生したことを周知させ、応援医の来院や救急車を要請することとともに、第1次救命処置(心臓あるいは呼吸停止が起こったときにその場に居合わせた人によって開始されるべき、観察と認識、気道確保、人工呼吸法、心臓マッサージから構成されるもの)を開始し、できれば薬剤などを使用して第2次救命処置(第1次救命処置に器材・器具や薬剤を使用して行う心肺蘇生法)を開始すべきであるとされている。
 そして、被告医院では、前記2(4)のとおり局所麻酔剤としてキシロカインを常時使用しており、まれにではあるとしても、キシロカインの使用によりアナフィラキシーショックが起きることも予見可能であるばかりか、被告医院で過去に麻酔により軽度のアナフィラキシーショックと思われる症状が発症したこともあるというのであるから、アナフィラキシーショックが発症した場合に救急措置をとるべく、少なくとも血圧測定器や聴診器等のモニター及び酸素吸入器(酸素も含む)を常備するとともに、アナフィラキシーが発症した場合には、歯科医師は、診断を中止し、直ちに患者を水平位にしたり、患者の頭部を低くし、スタッフに緊急事態が発生したことを周知させ、応援医師の来院や救急車を要請するとともに、第1次救命処置を開始すべき注意義務を負うというべきである。
 (3) 本件についてみると、前記2(6)及び(7)に認定したとおり、被告医院では、酸素ボンベは備えられていたものの、血圧測定器や聴診器等のモニターを備えていたと認めるに足る証拠はないし、Xがアナフィラキシーショックを発症した後、D医師は、直ちにキシロカインの投与を中止してはいるものの、直ちにXを水平位にしたり、Xの頭部を低くしたりせず、過換気症候群ではないかと疑って、歯科助手に紙袋を用意させるなどしてF医師への応援依頼や救急車の要請をせず、その後酸素ボンベを用意するように指示したり、歯科助手によってF医師への応援依頼がされたりしたものの、F医師が到着する以前に酸素ボンベを使用することはなかったと認めることができる。
 この事実によれば、被告医院でのモニターの常備が十分であったとはいえないし、D医師がアナフィラキシーショックの発症に混乱するなどして、Xに対する十分な救命処置を行い得なかったことは明らかである。
 (4) しかしながら、前記2(8)、(9)のとおり、本件では、Xがアナフィラキシーショックを発症した後10分前後という短時間でF医師が駆けつけ、救急車を要請するとともに自ら救急措置を講じているが、F医師が駆けつけたときには、Xはすでに失禁して意識を消失していたのであって、F医師及びその後の対応に問題があったことをうかがわせる証拠はないから、本件のアナフィラキシーショックは、F医師が駆けつけた時点で蘇生することが困難な、極めて重篤なものであったことが認められる。
 (5) しかも、鑑定の結果によれば、アナフィラキシーショックは、アレルギー反応の一つで、発現する症状や程度は様々であること、一般に、ショック状態の場合には点滴のための血管の確保が困難であるところ、点滴が困難となれば、薬剤の投与を筋肉内注射や皮下注射に頼らざるを得ないこととなるが、これらの場合には薬剤の奏効が遅くなる上、もともと薬剤が期待通りの効果をもたらすかはどうかは判然としないことが指摘され、仮に、設備及び薬が十分にあり、これらが適切に使用されるなどXに対する十分な措置が採られたとしても、同人の死亡の結果を避けることができたかどうかを判断することはできないとしている。
 (6) とすると、仮に、被告医院にモニターが常備され、D医師が、モニターや酸素ボンベを適切に使用するなどしたり、F医師に対する応援依頼や救急車の要請をより早い時点で行っていたとしても、本件アナフィラキシーショック発症からわずか10分前後くらいの時間内にXの死亡という結果を避けることが可能であったかどうかについては疑問があるといわざるを得ない。
 (7) よって、D医師及び被告医院(被告自身)に救護義務違反があり、救護義務が尽くされていればXの死亡という結果を避けることができたとする原告らの主張は理由がない。
 7 まとめ
 以上によれば、その余を判断するまでもなく、原告らの請求はいずれも理由がない。

青森地方裁判所弘前支部
 裁判長裁判官 土田 昭彦
      裁判官 佐藤 哲治
      裁判官 加藤 靖